以光作畫:北野謙

 

Photography,不是攝影,而是光畫。

Photographyとは、撮影ではなく、光画である。

 

 

認識北野謙是在2014年雨傘運動的時候。
他的作品不是一般的照片,而是光與影𧗠生出來的一團混沌。

第一次見面時,他讓我看他以前的作品,主要是在亞洲不同地區發生社會運動、大規模抗爭事件時到現場拍攝的肖像。

幾十張的黑白膠卷疊在一起,用暗房技術揉合成為一幀照片,組成了「OUR FACE」系列。

 

北野氏に知り合ったのは2014年、傘の革命という時期であった。
彼の作品は普通の写真ではなく、光と影で生まれた混沌である。
はじめて会った頃、北野氏の作品、主にアジアで行ったデモの参加者の肖像を、見せていただいた。
何十枚の黒白フィルムを重ね、暗室技術でそのたくさんのイメージを一つの写真表面に焼き付けた。

 


 

 

向攝影家發問
撮影家への質問

 

美琪:「北野先生你去過亞洲很多地方拍攝示威遊行的照片呢。當拍攝這些社會運動的時候,你是以什麼立場來看這些事件?是純粹從旁觀者的角度去表達事件的真實,還是對示威中任何一方懷有同情?在這些抗爭中,有時候分不清誰對誰錯,你認為作為一個攝影師這時應怎樣做?」

北野謙:「我不確定在日語而言示威與突發新聞事件、真相等等有沒有存在既定的關係,但我去拍攝當然是因為對那些示威的訴求有興趣。例如日本的反安保法案、反核能發電示威等等,我也贊同這些反對的聲音,不過在攝影的時候會把個人感受放在一旁。我不只拍攝示威遊行,還拍一些宗教、祭典、運動。無論拍什麼都一樣,我認為尊重拍攝對象、不自行詮釋是比較好的做法。」

 

私:「北野さんはアジアに行ったデモの人の顔を撮っていますよね。どんな立場で撮りますか?傍観者の角度から事件の真相を示すことですか?或いは、闘いの団体の一方に同情していることですか?闘いということは、どちらが正しいかわからない時もありますが、この時、カメラマンはどうすればいいですか?」

北野氏:「デモが(日本語で言う)事件や真相と関わりがあるかわかりませんが、行われているデモのテーマには興味があっていくわけです。例えば日本のデモで国会前で安保法案や原発反対の声に僕も賛同しますが、作品を撮影するときはそうゆう気持ちとは距離を置くようにしているつもりです。デモの作品に限りません。宗教やお祭りでも、スポーツの人たちでも同様。相手への敬意を持ちつつ、解釈はしない、というのが僕にとってベターです。」

 

Photo by Ken Kitano. One of the "OUR FACE" series.

Photo by Ken Kitano.
One of the “OUR FACE" series.

 

 

美琪:「你認為攝影是真實的嗎?用長時間曝光去表現人的流動,有種像在做夢的感覺呢。為什麼用這種充滿藝術性的方法來拍攝?」

北野謙:「Photography,在日語叫『寫真』,這是錯誤的翻譯。以往有段時期,photography被稱作『光畫』。好像後者是比較正確的譯法。拍攝真實的東西,與『寫真/攝影』並沒有關係。」
美琪:「撮影は真実だと思いますか?長時間露光で人の流れを表現することで、夢みたいな感じになりますね。どうしてこの芸術的な撮影方法を選びましたか?」

北野氏:「Photographyを日本語では写真といいますが、間違った日本語訳です。昔の一時、『光画』(こうが)と言われた時期がありました。そのほうが正しい気がします。真実を写す、ということと写真(撮影)とは関係ないです。」

 

 Ken Kitano, from Flow and Fusion: Demonstration, Shibuya, Tokyo


Ken Kitano, from Flow and Fusion: Demonstration, Shibuya, Tokyo

 


 

 

FLOW AND FUSION

 

在北野謙的《FLOW AND FUSION》系列裏,光線在照片上揮毫,構成一幅模糊曖昧的畫。

是什麼驅使北野謙拍攝社會性很強的作品呢?

又是什麼原因讓他有廣闊的世界觀?

這應該是與他成長的年代有關。

北野謙在1989年開始拍攝「溶游する都市」。當時正值日本泡沫經濟末期,日本整個社會都呈現一種薄弱的狀態,令當年19歲的他幾近窒息。

他從這種社會氛圍下漸漸看到了虛無縹緲的景象,也常常感到煩躁惱怒。他覺得人的存在是極度曖昧、沒有固定形狀又汲汲可危的。

而他對社會的這種理解方式,在他的作品裏顯露無遺。

不管走過的路人、汽車或那些會移動的東西,在畫面上劃過一道光的瞬間,為靜態的照片添上了一份浮躁不安的動感。然而這些動感,雖不能看清其真實形態,觀眾卻能很容易以常識令這一團模糊的東西在我們的腦海裏回復原貌。

 

Ken Kitano, from the series FLOW AND FUSION Tokyo Dome, Japan

Ken Kitano, from the series FLOW AND FUSION
Tokyo Dome, Japan

 

北野氏の「《FLOW AND FUSION」シリーズは、写真が光に描かれ、曖昧な画面になりました。

なぜ北野氏の作品シリーズは社会に強い関心があるか?

なぜ彼は広い世界観を持っているか?

彼の成長していた年代に関係があるかもしれない。

1989年,北野氏は「溶游する都市」というフォトシリーズを写し始めた。その時期は、バブル経済の末期であり、日本社会全体が希薄の状態であった。19歳の彼は窒息になりそうであった。

そういう雰囲気で、虚無なものが見えてきてもどかしさも感じていたと、北野氏は写真集に書いた。人間の存在は極めて曖昧で不固定で危そうであると。

 

世界へのそういう理解は北野氏の作品にもはっきり表現されている。

路人も車も、動き回るものはすべて光となり、絵筆のように静かな背景に一抹の不安な動感を描いた。動感の実体が目に見えないのに、常識によって形のないものを判別することができる。

 


 

 

我想起兩件事。

 

第一,這世界原本很混沌,但你隱約知道這種混沌代表什麼,結果你並沒有深究,繼續渾渾噩噩地跟著這團形體模糊的東西走。

 

第二,隨著時代進步,生活速度加快,遺忘的速度也加快,甚至根本從頭到尾都沒有仔細記認過事物的形體。像是火車加速時窗外抹過的一道朦朧的風景,你憑一抹綠去猜測那是數棵樹,或一個樹林,卻絕無打算探究樹的形態或紋理。像這個世界裏,人作為一個形狀模糊的群體存在,而你並不敢刻意把自己的身影重塑成鮮明可辨的獨立個體。

 

二つのことを思い起こされた。

一つは、この世は元々混沌である。そして人間は、混沌の象徴するものが何と無く分かれるから、その実際を探求するつもりもなく、無知蒙昧な者になってしまった。

もう一つは、時代の流れが変わることと共に、テクノロジーは進歩しているが、人間記憶は段々薄くなってきたというよりも、この世に在るものの様相を全く気にならなかった。列車を乗るとき窓から見ると、緑色でそれが木と判断し、何十本何百本の木でそれが森と判断する。木の形や種類には興味がない。個体の人間もぼかされた木であり、自分の形は団体/社会という混沌とひとつになってしまった。

 

Ken Kitano, Sunrise to Sunset, Mt. Fuji, Yamanashi, from the series One Day, 2007

Ken Kitano, Sunrise to Sunset, Mt. Fuji, Yamanashi, from the series One Day, 2007

 

 


 

 

作者: 美琪
自以為是浪子的90後頹廢女孩,實際上可能是個毫無大志的寫作人+攝影者。
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